若き日のトニー・ウィリアムス。
この頃はまだ20歳になっていなかった筈。 "天才"とは彼のような人のことを言うのでしょう。 ドラム演奏の常識を自らのスタイルで永遠に塗り替えてしまった人物。 そう言えば先日、大相撲で横綱に昇進された稀勢の里関が中学生時代に、 「天才は生まれつきです。もう無理です。」 と書いていたと聞きましたが、気持ちは良くわかります。 わかる、というと上り詰められた方に対しておこがましいですが確かに共感できます。 ドラムの世界でも天才は、なんというか普通の人の世界を突き抜けて行ける段違いの力を持っています。 真剣に物事に向き合っている人ほど、持って生まれたものの差ということに敏感だと思います。 自分の置かれた状況でいかにギリギリまで取り組むか。 そういう真摯な態度で相撲に向き合ってこられたんだと思います。 ただ努力、というか継続して出来る能力も才能なんですよね。 言うまでもなく横綱は類まれな才能をお持ちだと思います。 それはさておき。 何度も思うことですが、20年程前なら超レア動画で入手困難、またビデオ・LDの類いが一本数千円〜一万円近くしていたようなものを今は携帯端末からすぐ視聴することができます。 学生時代に観たかったようなお宝動画がたくさんあります。 当時はトニー・ウィリアムスの動いてる姿とかは私には想像の世界でした。 いつか時間を作って研究しながらのんびり観たいといつも思っています。 大変に良い時代です。 その反面。 世の中的に昔ほど音楽に特別さがなくなったような気もしたりして。 珍しさがなくなってしまった裏返しなのか。 ありがたみがないんですかね。 いわゆるプロも含めてほとんどの人には一生かけても到達出来ないテクニック、音楽世界の数々がすぐそこにあったとしても。 誰もがアクセス出来る情報にありがたみがなくなるのは当然と言う気はいたします。 まあ文化として根付くにはあまり特別過ぎても駄目なんでしょうが。 しかしポップカルチャーとしての音楽は別として芸術としての音楽は私たちの文化に根付いたんでしょうか? 文化として根付くと言うのには高いハードルがあると思っています。 サッカー日本女子がワールドカップで優勝した時に日本中が熱狂しました。 女子サッカーはメディアを賑わせ大きなムーブメントが起きました。 その時代表チームのキャプテンだった宮間あや選手はインタビューに答えて言いました。 「女子サッカーが文化として根付いてほしい」と。 印象深かったです。 ワールドカップ優勝によって世間の空気は変わったように見えていたのに。 お祝いムードの中で彼女は冷静に状況を捉えていました。 おそらく「今のフィーバーはただのブームに過ぎない」と。 楽観する気にならなかったんでしょう。 実際あれから何年もたってかつての熱は世間一般にはありません。 彼女が望んだ「文化」に、未だなっていないと思います。 盛り上がると言うことはいずれ盛り下がると言うことでもある。 世の常とはいえ寂しいものです。 芸術音楽が文化として根付いてほしい。 ささやかな、と言うには大き過ぎる私の願いです。 普通の人が日常の中に存在を感じているもの。 それが文化だと思います。 まず風土と結びつかないものは文化になりにくい。 しかも文化には淘汰があります。 例えば着物文化。 着方を知っている人は限られるようになりました。 文化としてなくなって欲しくはないですが私自身も着る機会がほとんどありません。 おそらくかなりの方がそうだと思います。 つまり現代の生活に合わないと言うこと。 頑張らないと生き残れないと言うことは厳しい。 文化とは空気のように自然にそこにあるものですから。 では音楽はどうか。 教育の環境は良くなったものの文化として成熟する機会を失ったまま超情報社会に突入してもう後戻り出来ないところまで来ているのではないか。 … 大袈裟ですかね。 超情報社会は物事の成熟に必要な"時間がかかる"と言うことを嫌います。 ディテールが崩れていてもお構いなし。 世の中の移り変わりが早過ぎるので気にしてはいられないのでしょう。 未熟でも面白いければそれでいい。 結果薄っぺらくなりがちです。 この空気の中では深みのある芸は育ちにくい。 でもだからこそ。 ドラミングと言う時間のかかる芸を育む日々に意義がある。 やがて自己表現と云う芸術に昇華出来るように。 一生楽しめるとはそう言うこと。 これは身をもって体験して貰うしかありません。
0 コメント
返信を残す |
『<<前へ』でひとつ前、
|